FILL THE WORLD with DEMENTIA-FRIENDLY COMMUNITIES
TOYOTA FOUNDATION RESEARCH PROJECT
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■オープニング・リマークス/日本・世界における認知症ケアのこれまでの潮流
「認知症になってしまった」ではなく
「認知症になるまで長生きできた」が正しい解釈に
――医療法人社団悠翔会理事長・診療部長 佐々木淳
2030年、世界の認知症患者は7600万人に
「認知症に着目して、地域共生社会を再定義する」というテーマで研究を開始したのは2018年のことでした。当初、日本と台湾とシンガポールという、医療制度の異なる3国での取り組みを互いに学び合うという目的でスタートしましたが、新型コロナウイルス感染拡大を受けて、物理的な交流は十分に行えない状況となりました。そこで、研究プログラムの一部を変更し、それぞれの国での先進事例の収集をするとともに、オンライン形式のシンポジウムを通じて、それを相互に学び合えるスタイルに変更しました。
この研究を始めた背景には、認知症の急激な増加があります。今から約10年後の2030年、世界で7600万人の方が認知症になると予測されています。つまり、世界の人口約76億人(2017年)の約1%が認知症ということになります。しかも、この数は増え続け、2050年には1億3500万人、現在の日本の総人口を超える認知症の方々が世界にあふれることになります。
当然日本も例外ではありません。2060年、「日本の高齢者に占める認知症の人の割合」(厚生労働省研究班データ)は34.3%と試算されています。同年の日本の高齢化率は40%と推測され、40%のうちの34%ですから、全人口の13%、実に日本人の7人に1人が認知症になります。
このように、他人事とは言えない現実がありながら、日本における認知症に対する理解はまだまだ足りません。「中枢神経系の怖い病気で人格が崩壊する」「何もわからなくなって何もできなくなる」「お世話をする人にも迷惑をかけてしまう」「認知症になったら人生終わりだ」と捉えている人が圧倒的に多いのが実情です。長生きしていればいつかは認知症になります。こんな価値観のままでよいのでしょうか。
認知症は病気ではありません
そもそも、認知症は病気ではありません。「一旦正常に発達した知的機能が持続的に低下し、複数の認知障害があるために社会生活に支障をきたすようになった状態」のことであって、病気ではないと知っておく必要があります。
認知症の原因となる疾患があり、それによって認知障害が生じていても、本人は社会生活が継続できていて、周囲も困っていなければ、それは認知症とは言わないのです。
したがって、認知症を規定しているのは、「その人の脳の病理学的所見ではなく、その人が暮らす社会環境そのものだ」という言い方ができます。となると、「障害」という概念と通ずるものがあるかもしれません。
国や調査機関によって数字はさまざまですが、認知症の原因はアルツハイマー病が最も多いと言われ、50~70%になります。続いて、脳血管疾患が20~30%、レビー小体が10~25%と言われています。そして、前頭側頭型が10~15%。それ以外にもさまざまな疾患があり、脳の疾患だけではなくて、内科疾患でも認知機能が低下することはあります。
認知症の65%は予防が不可能
病気が原因で認知症が起きているなら、病気の予防や治療をすればいいのではないかとなりますが、認知症のリスクは生まれたときから始まっているとの研究結果もあり、遺伝的素因として、遺伝子の異常があると認知症になりやすいことも知られています。
さらに、幼少期の教育レベルが認知症の発症に関係しているとの報告もありますし、中年期の難聴や肥満、生活習慣病などが認知症のリスクになることもわかっています。
ライフスタイルでいうと、喫煙、うつ、身体機能の低下、社会的孤立が原因になって認知症になるリスクを高めると言われています。喫煙や肥満などは予防的介入ができますが、認知症の65%は予防が不可能だと言われています。
また、予防的介入ができたとしても、その人たちが長生きをしていつまでも認知症にならないかといえば、それはもちろんわかりません。認知症は脳の老化という側面もあるからです。
脳の中に出てくる異常はさまざまあります。認知症の人たちに認められるものとして、最も有名なのはアミロイドβの蓄積やシナプスの機能障害、タウタンパク質などがあり、症状が出る前からいろんなものが脳に溜まっていくのですが、認知症ではない人は問題ないかというとそうではありません。
お年寄りはいろんな病気で亡くなります。遺体を解剖させていただいて、脳を調べてみると、認知症ではない方の脳にもいろんなものが溜まっています。しかし、これが溜まっているからといって必ずしも認知症というわけではないようですし、溜まらなければ認知症が防げるかというと、そうでもないかもしれません。
いずれにしても、脳はとても複雑な臓器で、加齢とともにどんどん機能は低下していきますが、一番大事なことは、「ここからが認知症で、この手前は認知症ではない」という境界線はなく、脳の機能は階段を落ちるように低下するということです。
たとえば、脳卒中であれば急激な機能低下が起こりますが、それ以外の病気ではおだやかに低下していくので、認知症はあくまでグラデーションの状態にあるということです。
がんの場合なら、がん細胞があるかないかではっきりしますが、認知症の場合は必ずしもそうではない。そして、このグラデーションは加齢とともに徐々に色が濃くなっていくので、どこからが病気でどこからが老化なのかの線引きも難しいのです。それどころか実は、長生きすれば誰もが認知症になるのです。
95歳を超えると8割が認知症に
2013年の厚労省の研究班の推計によると、85~89歳の日本人は4割が認知症、90~94歳の6割が認知症です。95歳を超えると8割が認知症で、残りの2割も軽度認知障害ということになります。つまり95歳を過ぎたら全員が認知機能障害なのです。
これを病気と呼んでいいのでしょうか。基本的に病気や障害とはその人口集団における少数派を指す言葉です。たとえば、85~94歳の人口集団ですと4~6割、2人に1人が認知症なわけですから、これを異常というのはおかしいでしょう。
逆に言うと、高齢者の認知症は正常であり、高齢になっても認知機能が良好に保たれている人の方がバリアント(変形)だと考えられます。加齢に伴って認知機能が低下していくのは生理的な現象として我われは理解しておくべきで、それを何とか防ごう、治療しようとするのではなく、もちろん予防は重要ですが、「年齢とともに認知機能が低下していくのは普通のことだ」という認識をもつ必要もあるのではないでしょうか。
私の尊敬する大先輩の医師たちも、最近、認知症に対して非常にポジティブな発信をするようになってきています。ご自身に認知機能低下の兆候が出てきている方もいます。たとえば、「長谷川式認知症」スケールを作られた長谷川和夫先生は、自らが認知症になられて「初めて認知症のことがわかった」とおっしゃっています。
「認知症になってしまった」ではなく、「認知症になるまで長生きできた」というのが、正しい解釈なのかもしれません。
言い方を変えると、日本は認知症になるまで長生きできる人が増えているということかもしれません。ミャンマーには認知症の人はほとんどいません。平均寿命が60歳だからです。認知症がない国とは、認知症になれるまで長生きできない国なのかもしれません。
認知症になると細かいことには煩わされなくなる。あるいはがんになって同じステージでも痛みを訴えない方が非常に多くなります。そして、死に対する恐怖が小さくなることも在宅医療をしていますと、日々経験します。
歳とともに体が弱って、いろんな病気が出てきて、死が近づいてきます。明瞭な認知機能があることは、もしかすると辛いことがたくさんあることなのかもしれません。一方、認知症だと、日々感謝と喜びの中で生きていくことができるかもしれません。これを「老妄の恵み」と表現された先生がいらっしゃいました。
在宅医療と介護保険だけではうまくいかない
人間は、成熟とともに身体の機能が低下して認知症になっていきます。認知症は人間として成熟していく一つのプロセスと考えれば、社会のほうが考え方を変える必要があります。
「人生の成熟」を治す、防ぐのではなく、「私たちがいずれそうなる」ことに備えておくことのほうが重要です。つまり、私たちが社会生活を送っていく上で支障を感じないような社会をつくることが重要だと考えます。
では、日本の認知症の社会福祉政策はどのように変化してきたのでしょうか。
認知症という言葉に改められたのは2004年、それまで私たちは「痴呆症」と呼んで蔑んでいたのです。一昔前の日本の認知症の人たちに対するフォーマルサービスは精神病院と特別養護老人ホームであり、かつてはこの2つに収容隔離されていたのです。
もちろん特養は今でもきちんとその役割を果たしていますし、精神病院も必要な社会資源かもしれません。ただ、人生をよりよいものにしていくには、やはり新しいケアが必要だと、介護保険制度や在宅療養支援診療所などが整備されていきました。
しかし、ここに来て「がんばってきたけど、在宅医療と介護保険だけではなかなかうまくいかない」というのが現場における実感だと思います。そのような中でインフォーマルサービスとして、国がバックアップする認知症サポーター制度ができました。認知症カフェに公的予算が一部つけられ、全国展開されながら社会に対する認知症の認知を変えていくという取り組みも徐々に行われてきています。
暗い未来を明るい未来に変える
では、この先どうするのか。2008年に「地域包括ケアシステム」という概念がつくられましたが、この概念は、「医療と介護の連携」という文脈がメインで、医療と介護だけで認知症を何とかしようとするふしがありますが、それでは無理だと私たち医療介護専門職は実感していますし、おそらく当事者の方々もそう強く感じていると思います。
その中で、考えられてきた新しい概念が「地域共生社会」です。認知症の人だけではなく子どもも1人親も地域には困っている人が大勢いる。そうした人たちを含めて地域の人たちが支え合う社会、支える人と支えられる人を分けるのではなく、みんなが支え合える、そんな心地よい社会をつくろうというのが地域共生社会の概念です。
ただ、「地域包括ケアシステム」が地域共生社会に発展するのは無理だと思っています。医療と介護だけでは生活はもちろん成り立たないし、生活は基本的にはインフォーマルです。私たちの生活そのものを支える地域やインフラが大事なのではないかと考えています。
これについて、社会保障の限界は今さら言うまでもありません。何かあったら国や自治体に「やってくれ」というのがこれまでの日本国民でしたが、もうお金はありません。私たちは自分たちで、一見すると暗い未来を明るい未来に変えていかなければならないのです。もっとも、「やってやれないことはないぞ」という、地域共生社会の先進事例は全国にたくさんあります。それらを紐解いてみると地域共生社会の実現にはいくつかの条件があることがわかります。
「先進事例の調査研究」と「開発提案の普及啓発」
一つはそれが居場所になっていることです。そして、その居場所は単に場所があるというだけではなく、そこにつながりが生じるそんなネットワークのハブになっていて、そこには何らかの対価の回流があることです。
これまで対価というとお金、お金というと医療保険や介護保険となっていましたが、そうではない形でお金が回っているところもあれば、お金ではなく感謝が回っているところもあります。結果として、対価は健康として、あるいは生き甲斐として返ってくるところもあります。
何が対価かという、新しい定義も必要かもしれません。こういったものが循環していく中で新しい文化がつくられていくわけで、そこまでいけば「地域共生社会」だと思います。
私たちが、トヨタ財団国際助成プログラムの援助で行ってきた事業は大きく2つあります。一つは、「先進事例の調査研究」で、日本国内180事例、台湾から30事例を集めて研究してきました。今回、シンガポールが参加できず、日本、台湾の2地域のフィールドワークと研究課題の抽出でしたが、これを汎用性のある地域共生社会モデルの開発提案につなげていきたい。そのために、このプロセスの一部を皆さんと共有したいと思っています。
もう一つは、ここで開発提案したものを普及啓発していく、という事業です。
自治体や行政機関だけではなく、「地域で何かやりたいな」と思っている人たちが、これまでの既存事業あるいは医療介護事業ではなくて、そこに分類不能な新しい事業を創出していく。そういうことをバックアップできないかと考えています。
学び合いの中でお互い成長していく、ということも大事だと思っています。高齢化は日本だけの問題ではなくて、全アジア、全世界で同時進行する課題です。特に家族観死生観の近いアジアの国々が連携することは非常に重要だと思っています。
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