――おれんじドアを立ち上げたきっかけを教えてください。
6年前に立ち上げました。「宮城の認知症をともに考える会」という医師が開催する研修会が、年に1回フォーラムを開いているのですが、6年前、そこに講演で呼ばれたんです。そこで初めて当事者の私が登壇したところ、宮城の認知症に関わる方が驚いてしまって。山崎英樹先生から「京都に行ってみない?」と言われて、京都に2泊3日して2~3回講演しました。その時、私が前向きになったきっかけが、竹内さんという広島の元気な当事者の方との出会いという話をしました。
1年間構想を練って、「当事者が当事者に出会うって大切だよね。それを実現してみないか」ということで、おれんじドアが始まりました。
ネットで見た情報で、認知症になったら2年後には寝たきりになり、10年後には亡くなるのだと思い、不安のなかにいたときに竹内さんと出会い、6年が経っても元気だと聞きました。「今までの情報は間違ってたんじゃないか? 竹内さんのように生きたい」と思ったのが最初です。
――どのように仲間に呼びかけたのですか?
「宮城の認知症をともに考える会」で実行委員を募ったんです。ただ、自分がやりたくないものはやらない。とにかくまずやってみようというところから始まりました。
「おれんじドアでは病名も困ってることも聞かない」ということは、言い続けました。認知症カフェなど、どこに行っても、病名や困ってることを聞かれ、アンケートを取られる。それが嫌でした。困っていることを教えても、結局助けてくれるわけではない。尋問になっているだけです。そういうところには行きたくない、と思っていました。
――“おれんじドア”というネーミングについて教えてください。また、どんなスタンスで開催していますか?
おれんじドアは入口という感覚です。そこから一歩踏み出してもらうために、“ドア”としました。病名から人を見ないよう、病名は聞きません。すごくゆるくやりたいと思っています。
おれんじドアは毎月、「〇日に開催する」と決まっていますが、「来月はあなたが担当ね」とは決めません。実行委員は20名ぐらいいて、お医者さんもいますが、「来てね」と言わないし、「あなたが担当ね」と言ったこともない。「来たければくれば」という感じです。自分がやりたいからやっていることであって、来たい人がくればいいと思っています。「誰もこなくても自分一人でできるし」という感覚です。自分がやりたいことをやるのが前提で、一人も来なくても続けようという気持ちです。ただ、常に5~6人は来ています。
運営は、当事者一人から始めました。2年目になって定期的に来てくれる当事者が増えてきたので、その人たちをすぐ実行委員に引っ張り込みました。私のほかに、今は当事者の実行委員が4人います。2019年は、私は3分の2は行っておらず、私が行かなくても回るようになっています。私が行くと、ほかの当事者がおんぶにだっこになってしまうので、私がやらないほうがいい。どんどん任せていっています。
私がいないとき運営を任せた当事者に、ネガティブな考えをもつ人がいたのですが、その人が「成功したよ」と言ってくれたとき、すごくうれしかった。どんどんほかの当事者に任せるようになって、うまくいくようになりました。
――おれんじドアは変わってきているのですか?
最初は当事者の話し合いに支援者を入れていました。ただ、当事者がちょっと発言に遅れるだけで、支援者が先回りする。支援者に「しゃべらないで」というようにしましたが、そうすると、今度は目で訴えるようになりました。そうなると、「もう(支援者は)入らないで」ということになって、今は運営に支援者を入れていません。
おれんじドアを終えた後は、実行委員が残り、30分ぐらいの振り返りをしています。「次はこうしていこう」ということを決めています。それ以外の会議はほとんどなく、事前の打ち合わせもしていません。振り返りをすることで、次につながっています。
――活動に関わってくれる当事者の方が、だんだん増えてきていますね。
新聞やテレビなどでは宣伝していません。本人のためにやりたいと思っているのであって、宣伝のためにやりたいわけではない。本人が安心して来られる場所にしたいのです。カメラを向けるようなことはしたくありません。お医者さんも世話人として参加します。自分が紹介した患者さんが笑顔で帰っていくのをみて、ここにつなげるのはすごくいいんだとわかってくれて、おれんじドアにまた紹介してくれています。いろいろな人が、「(当事者を)丹野さんに会わせたい」と思ってくれて、どんどんつなげてくれます。
ただ、そんなに大勢に来られても困ります。多く来てくれても、一人ひとりとゆっくり話せないからです。新規の人は2~3人がちょうどいいですね。たくさん来てくれるほどいいというわけではないんです。
――会場はいつも決まった場所ですか?
東北福祉大のステーションキャンパスの前のカフェです。すごく明るくて綺麗。無料でお借りしています。雰囲気がいいんです。東北福祉大の矢吹知之先生のゼミの学生が来てくれることもあります。
――運営するうえで、大切にしていることはありますか。
参加者の名前は聞きますが、本名じゃなくてニックネームでもいい、なんでもいいといっています。その人の情報はいりませんが、名前を呼びたいからから聞くのです。これから何をやりたいかも聞きます。認知症になって、やりたいことを聞かれたことがない人ばかりです。
不安をもった当事者には、家族に背を向けるように座ってもらいます。あえて家族は見えないところに。しゃべれそうな人には私の左側に、しゃべれなさそうな人は右側に座ってもらい、時計回りに話してもらいます。言葉が出にくい当事者も、うなづいたり、声を発するようになります。しゃべらない人は一人もいません。
家族は「この人、しゃべりませんから。何もできませんから」、と本人の目の前で平気でいうんです。それに対して私も、「それって悪口じゃないですか?」と平気でいいます。「家族が本人にそういうこというのはだめだよ」っていいます。家族の元に戻った瞬間、本人は家族から「大丈夫だった? がんばろうね」と言われる。「何が大丈夫なんですか? ただ話をするだけですよ」と。「私がいなくても大丈夫だった? ちゃんとしゃべれた?」という意味で家族はいっているのです。今は家族に、「本人が家族のところに戻ってきたときには、『楽しそうだったね。よかったね』と声かけしよう」といっています。
実は、適当にやっているようで緻密にやっています。言葉かけ一つに、本人はとっても傷ついてしまう。家族やケアの人間が傷つく一言をいってしまうことがある。それにちゃんと気付いて注意するのが、私の役割です。
ただ、家族から怒られる場合もあります。本人から、「自分は財布も持っていないし、一人での外出は禁止と言われている」等という話を聞き、「財布を持たせてあげてくれませんか」といって、怒られたことはあります。
――家族との関係性が、最も悩まれるところなのでしょうか。
支援者も家族に対して同情しますが、それはちょっと違うと思います。間違っていることは、間違っているといわなくては。当事者が元気になることで、家族も変わってきます。管理と支配をしようとしていた家族が、本人が前向きな発言をするようになると応援してくれるようになります。
この6年間に、全国から100人以上の当事者が参加しています。いろんなところにつながって元気になってもらっています。
一般社団法人「認知症当事者ネットワークみやぎ」を立ち上げ、認知症カフェの視察をしてもらったり、ぴあサポートや講演をしてもらったりしています。
――なぜ、一般社団法人を立ち上げたのですか。
当事者に給料を出せるようにするためです。“認知症でもできること”ではなく、“認知症になったからこそできること”として、講演、政策提言、ピアサポート等で当事者が報酬を得られるようにしたかったのです。これまでは、認知症の人の仕事といえば、草取りやポスティングなどが主流でしたが、“認知症になったからこそできること”って、実はいっぱいあります。
いろいろなことを考えながら取り組んでいますが、やりたいことは、有名になることや社会を変えることではありません。目の前の当事者が笑顔になることを考えてやっています。一人が元気になれば、それを見た人が元気になり、どんどん元気の輪が広がっていきます。
――病院でも、当事者が当事者に会う活動をされていますね。
「おれんじドアに来られるような人はいいよね。まだまだいっぱい、引きこもっている人はいるでしょう」といわれ、どうしたら引きこもっている人を元気づけられるかと考えた末、2018年から、診察が終わったあと、認知症と診断された方が病院内で元気な当事者と出会える場をつくっています。月4回行っている、ぴあサポートです。
先生もあえて、ぴあサポートのある日に予約を入れるので、診断された方は特に予約などをすることもなく、元気な当事者と会えます。今後は宮城県内すべての認知症疾患医療センターで、そのような仕組みをつくりたいと思っています。診断された日に、すぐに元気な当事者に出会えたら、その先の未来がまったく違ったものになります。
――宮城の認知症ケアは変わってきていますか?
宮城では価値観が変わってきた人がどんどん増えています。一般社団法人の当事者は20名以上います。
これからはもっと、活躍できる当事者を増やしていきたい。最低賃金やごまかしではなく、きちんとした報酬を払いたいと思って取り組んでいます。仕事の依頼は県や市から委託されます。認知症サポーター養成講座に当事者を必ず入れてほしいと要望すれば、当事者が参加し、話をします。認知症カフェを当事者が視察することもあります。
発信力のある当事者が一人出ると、その人しか活動してないという場合が多いものです。私は、講演も自分が全部やるのではなくて、いろいろな人にやってもらっています。
――丹野さんはもともと、トップセールスマンで明るくて社交的ですから、“丹野さんだからできる”と思われることもあると思います。人前で話すことが苦手な当事者が、気後れしたりすることはないですか?
「どんどん失敗していいよ。次、どうしたら失敗しないようにできるか考えようよ」と話しています。講演も、最初は一人ではなく2~3人で一緒にやってもらって、自信がついたら、一人でやってもらいます。大切なのは、誰もその人につかないことです。後ろに人がついて、しゃべれなかったらフォローするということはしません。当事者が2~3人いれば、お互いフォローし合えますから。
――それはいいですね。失敗しても次につなげていくという。一緒に発信する仲間もできる。この業界は発信者が少ないですね。
発信する人が増えていかない。一人の人ががんばりすぎています。いろんな会を見ていても、代表になると10年以上、古い知識のままやり続ける。新しい人に交代し、任せて応援していくことも大事です。
――おれんじドアのような活動を継続する秘訣はどこにあるのでしょう。
ゆるく、ゆるくを大事に。高瀬さんのkaigoカフェと一緒ですね。場所もお金もかかりません。
おれんじドアはコロナで2回ぐらい中止にしましたが、その後は外のオープンデッキでやったりしています。その場その場で、できることを考えています。
――おれんじドアと、一般社団の運営メンバーは一緒ですか?
おれんじドアと一般社団法人「認知症当事者ネットワークみやぎ」のメンバーは、別です。運営メンバーも別です。一般社団法人は、山崎先生の法人に事務局を置いてもらい、事務の人が運営してくれています。自分はやりたいことをいうだけで、回りの人が応援してくれています。やりたいことを応援したいという人がいっぱいいてありがたい。やりたいことを発信しつづけているから、集まってくれるのだと思います。
――おれんじドアには支部があるのですか?
全国にありますが支部ではありません。「名前を使っていいですか」といわれてOKをだしましたが、活動が全然違うところもあります。他のところの活動はどうでもいいと思っています。それより、仙台のおれんじドアがぶれないことが大切です。私は、おれんじドアは本人が中心であることが大切だと思っていて、本人中心で決めていくことがすごくおもしろいのです。他のところは、本人中心といいながら、周りの声が強かったりするところもあります。
――おれんじドアという名称は自由に使ってもらっていて、それぞれ特色が違うのですね。「これがおれんじドアなんですか?」と言われて困ることはないのでしょうか。
のれん分けのように、明確にルールを決めたりしていません。失敗しようが、何をしようが、自分のところの信念を貫いていければいいと思っています。たまに全国で開催しているおれんじドアを見て、おかしいと思う時もありますが、何もいいません。継続は大変です。各地で「やりたい」という方がいても、継続する活動ばかりではありません。仙台は、ゆるいから続いています。
――今後の方向性について教えてください。
認知症と診断された人たちのなかには、周りの人や環境が原因で進行してしまった人が多く、その結果、精神病院に入れられて亡くなっている人が大勢います。それを何とかしたいと思っています。当事者同士で支え合っていく体制をつくりたいのです。診断直後をどう支えるかで、その後は、ものすごく変わってきます。常にそこを考えて、自分だけががんばるのではなく、みんなにがんばってもらいたいですね。
――ありがとうございました。
■事業名:おれんじドア
■事業者名:おれんじドア実行委員会
■取材協力者名:丹野智文(おれんじドア実行委員会代表)
■開催場所:〒981-0943 宮城県仙台市青葉区国見1丁目19-1 東北福祉大学 ステーションキャンパス3F ステーションカフェ
■取材・まとめ:高瀬比左子(NPO法人未来をつくるkaigoカフェ代表)
■取材時期:2020年11月